INTERVIEW 001

ザ・フー・ファンクラブ会長対談2009 Part1


 2009年1月吉日。ザ・フー・ファンクラブの初代会長保科氏と二代目会長前澤氏に集まっていただき、2か月前に実現したThe Whoの単独来日ツアーについて語っていただいた。お二人はどのような思いであの来日を迎えられ、どのような感想を持たれたのだろうか。まずはその前にファンクラブの歴史を簡単に振り返っていただいた。


ザ・フー・ファンクラブ誕生

WHO's Generation(以下、W):こんばんは。こうやってお二人に揃っていただき、対談企画を実現できて本当に嬉しく思います。ありがとうございます。お二人の対談と言えば『ザ・フー・ファイル』(シンコーミュージック刊)でのものがあり、少々出だしが被ってしまうところがありますが、まずファンクラブ設立のあたりから簡単な歴史をお話ししていただけますか?

保科氏(以下、保):ファンクラブは1970年に作ったんだけど。70年ていうのはウッドストックなんですよね。70年6月公開のそれを多分高校1年のときに見て、それで、それまで(ザ・フーのことを)ほんとに知らなかったわけじゃないんだけど、こんなすげえバンドがいるのかと。ジョー・コッカーであるとかテンイヤーズ・アフターであるとか、スライもそうだし、ジミヘンもそうだし、それなりにすごいミュージシャンがいっぱい出てたんだけど、やっぱりあの場でのライブ・バンドとしての一番のすごさっていう意味ではもうフーがダントツ。圧巻だった。でも、その時の日本での人気とか知名度を考えると、ほとんど知られていないに等しいと。ちゃんと日本盤とか出てはいるんだけれども、当時読んでいた『ミュージック・ライフ』の<ファンクラブの会員募集>みたいなのにもフーがなかったのね。こりゃあ自分でやるしかないなと取って始めたのがきっかけですね。だからウッドストックの映画がかなり(大きかった)。それまで動いてる映像なんて、今みたいなねえ、テレビとかビデオとかある時代じゃないんで。

前澤氏(以下、前):多分『トム・ジョーンズ・ショー』が……『ディス・イズ・トム・ジョーンズ』が、その70年のその年にやったんですよ。

保:あ、なるほどね。

前:それを僕は見てるんですね。

W:それはテレビで?

前:テレビで。『トム・ジョーンズ・ショー』っていう番組があった。

W:あ、日本に輸入された番組としてということで?

前:そうそう、だいぶ遅れてだと思うけど。

保:まあうちの田舎では(なくて)、多分東京でしかやってない番組だったと思うのね。そういう特別な番組は。

W:ではそれだけ動く映像のレアな中で、ウッドストックを見たと。

保:そう。しかも、ねえ、すごい一番クライマックスのとこだったし、やっぱりギター壊すシーンとか、もうキース・ムーンのもうあのキチガイ・ドラミングとか。ああいうものってやっぱり見なきゃわからない。話に聞いててもやっぱり動いてるのって見ないとわからないんで、あれはやっぱり本当にもうすごいショックと衝撃を受けましたよね。

W:そしてファンクラブを始められたのは1970年の……。

保:秋ぐらい。

前:秋です。終わりですね。

保:秋ぐらい、9月終わりぐらいとかに始めたんじゃないかなあ、きっと。

W:初代会長として。

保:でもその前にちょっとあったって噂も聞いたこともあるんだけど。

前:60年代、ありました。青山にあったの。

W:あ、『ザ・フー・ファイル』の対談の方で触れられてましたね。

前:『ミュージック・ライフ』の60年代のを見ると、フーのファンクラブってあって、女性が代表だか会長だかやってた。

保:やってたらしいんだけどね。話は聞いたことあるけど、会ったことはないし話したこともないんで、実際どういう活動していたかもよく知らないんだけど。まあでもその頃、70年の頃は何もなかったから。だからまずどうしたんだろうなあ。多分『ミュージック・ライフ』とか出入りしてたんで、会員募集を載せてもらった。あと、よくその年辺りからけっこうロック関係の外タレが2か月に1回ぐらい来始めたのね。で、東京に見に行き始めて…。その時(のザ・フーの)レコード会社がグラモフォン・レコードって、今のユニバーサルなんだけど…。

前:日本グラモフォンね。

保:うん、日本グラモフォンっていう時代に、フーを出してたんで、そこにまあ押しかけたというかね、電話して「実はファンクラブやりたいんですけれども」って言った。まあ「公認」とかっていうのはあんまり曖昧だったんだけども、ディレクターが「いいですよ」ってことで会ってくれて。「じゃあ『ミュージック・ライフ』で会員募集して」「いずれ何か色々フィルム・コンサートとかやりたいですし」みたいな話をした。

W:そして保科さんが2年間ぐらい会長をされてから、その後…。

保:そうね、2年間ぐらいやって。会員で一番熱心だった(前澤君に)。

前:それはそう(笑)

保:電話くれたり、手紙出したり、訪問したり。情報は絶対東京の方がすごい良かったので。今みたいにネットもないし、『NME』とか『メロディ・メイカー』とかだって長野じゃ絶対買えなかった。逆に僕は前澤君に情報もらってそれを記事にしたりとかもしたことあるし、前澤君に書いてもらったりとか。全部ガリ版で始めて。

前:コピーだったよね。(笑)

保:オモチャみたいなね、コピー。

前:青焼きみたいな。(笑)

保:そうそう。それでやってホッチキスで止めたのを、最初は2〜3か月に1回ずつぐらいは一応(出していたかな)それなりにね。

前:はい。

保:例えば自分が東京に行って見た、フリーとかそういうイギリスのバンドのコンサートのレビューを書いたりとか、自分で買ったLPの評みたいのを書いたりとか、そういうライターの真似事みたいな。今ちょっとそれがあったら恥ずかしくて見せられない。

前:ほらね、皆言うでしょ?俺もだから嫌なんだよ。絶対嫌(笑)
(*ファンクラブ会報の表紙だけでも、いつかスキャンしたものをサイトに全部掲載することはお約束させていただきました)

二代目会長への引き継ぎと、映画『トミー』によるちょっとしたピーク

W:それから前澤さんが引き継がれたのは72年?

前:72年。

保:うん。

前:70年の秋にいろんな洋楽ロックのファンクラブが集まった共同イベント、フィルムコンサートがあったの。確か僕の記憶だと九段会館だと思うんですけど……違うかなあ。

保:うーんとね、青年館。

前:青年館か。日本青年館ね、外苑前の。そこでファンクラブ主催のフィルムコンサートがあった。って言ったってあの「シーカー」の16mmのフィルムしかないんだけど。その頃は期待して「もしかすると何か見たことのないフーの映像を見られるかもしれない」って言って行った。そこで保科さんに会ったわけじゃないんだけれど、とにかくフーのファンクラブが存在していることを知ったし、その連絡先がわかった。このくらいの大きさ(A4サイズの紙)に、各“ツェッペリン・リサーチ”だとか“ビートルズ何とか”とか、ファンクラブが書いてあって。多分手紙で入会した。でも僕はその時でもう70番台だったのね。出来て多分何か月かだったと思うけど。

保:そうだね。意外とね(いたね)。やっぱりウッドストック効果があったんだ。

前:最初にガーンとは入ったんだね。

保:『ミュージック・ライフ』掲載でガーンと。割と応募があった。一応会費も取ってやってたんだよね。

前:そうですね。月100円とかそんなレベルで。

W:では前澤さんの時代っていうのは72年から……。

前:72年の、ちょうどね6月ぐらいに保科さんからなぜか電話もらって……。「あ、会長さん」とか「どうしたんですか」とか言ったら、「いや、僕も高3になって受験なんで、ファンクラブをちょっと誰かに代わってもらおうかなーと思ってるんだけど」「ああそうですか」「前澤君なってくれない?」「何でですか。僕まだ15で高1なんですけど」「いや僕だって高1の時にファンクラブ作ったんだし」とか言われて。(笑)

保:そうそう。(笑)

前:で、「何で僕なんですか」って訊いたら、さっき言ったように「一番熱心で」とか言われて。

保:やっぱ熱意ないと。それがないとこういうのできないからねえ。

前:それで、それまでのバックナンバーとか、さっき言った(オモチャみたいな)コピー機を……。

保:機械ごと送ったんだっけ?

前:いや、保科さんに持ってきてもらいました。

保:あ、そうだっけ。

W:それから82年までされていたんですね。

前:まあ、途中いい加減で……。僕がダラダラ長くやっちゃった。その間に『トミー』の公開とかがあった。

保:うん。

前:あと、保科さんと一緒にロンドンにフーに会いに行ったりとか(*メンバーへのインタビュー内容は『ザ・フー・ファイル』収録)。今本当に70年代のいい時代をやらせてもらったけれども、いかんせん日本では火が点かなかった。

保:今考えると不思議だよね。『ライヴ・アット・リーズ』がまあ70年。

前:70年の秋。

保:一番売れたのはあれかな。

前:いや、『フーズ・ネクスト』。

保:『フーズ・ネクスト』か。

前:いや『リーズ』かな……。

保:うーん。でもねえ、ウッドストックがあって『リーズ』があって、ライブ・バンドとしての評価で盛り上がって、『トミー』もそれと一緒に平行してこう……。また売れてっていうか盛り上がって。

前:後からね。

保:で『フーズ・ネクスト』があって。多分フーの黄金期だったんじゃないのかなと思うんだけどね。ところが日本では……。

前:なのに日本では火が点かない。線香花火のように。アルバム出ればまあ上位になるけど、今で言うブレイクなんて言葉には到底及ばない。

保:うん。

前:でも75年に向こうで『トミー』の映画が公開されて、日本では1年遅れで76年に『トミー』が公開された。映画自体は封切で、多分1〜2週間で打ち切りになっちゃったんだけれども、その頃は洋楽ロック全盛の時代なんで、当然色々プロモーションもするから、かなりの人が、ロックファンが見に行った。それまで僕の実感として感じてたのは、男の会員が多かった。8割が男の会員だった。それが、100何十人で推移してた会員数が、一気に400人ぐらいになったの。

保:あ、そんなに増えたの。気付かなかった。

前:76年の『トミー』の時に。

保:そんないい時代があったの。あんまり詳しく聞いてなかった。

W:それがピークぐらい?

前:女の人が増えた。

保:女の子ばっかり。ロジャーファンが。

前:そうですね。トミー役のロジャーが。それが増えて、76年。逆に言うと、そっからまたフーはちょっと……ピート自身がバンドとしてのモチベーションを下げちゃったし、2年後にはキースも死んじゃったし。

W:78年を迎えて、そういうことになってしまって。

保:まあ、またでも『さらば青春の光』でまたちょっとぶり返したことはあるよね。盛り返したというか。

前:そうですね。

保:評価としてはね。もうキースはいなかったけど。

W:その評価が上がらなかった日本に、とうとう去年単独ツアー!ということで、今日はそれについて重点的にお話を伺おうかなと思っています。

Part2へ続く)


保科氏が会長を務めていた時期のファンクラブ会員証(両面)。前澤氏時代は名刺型に。


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