COLUMN 001

Wonderful Radio London!
 〜『ザ・フー・セル・アウト』に描かれた“パイレート・ラジオ”とは何だったのか〜


 67年末にリリースされた『ザ・フー・セル・アウト』は、今やザ・フーの最もポップな一面を捉えたアルバムとして高く評価されるようになったが、こと日本に於いてはアルバムの軸になる海上放送局、つまり“パイレート・ラジオ”について語られることは極めて少ない。ここでは英国60年代を彩った“パイレート・ラジオ”について振り返ってみたい。

 現在の音楽ファンにはとても理解し難いことだが、60年代初頭までの英国でラジオ放送を行っていたのはBBCだけであり、民放のラジオ局は認可されなかった。さらには英国での音楽家組合の力が強く、彼らの労働機会が奪われないようラジオでレコードをプレイすることに強い規制がかけられており、ポップ・ミュージックを放送していたチャンネル、BBCのライト・プログラム(つまり軽音楽)の“ニードル・タイム”と呼ばれる僅かな時間のみしかレコードをプレイすることが許されていなかった。この規制は結果的に所謂“BBCセッション”と呼ばれる貴重な録音を多数残すことになるのだが、BBC自体には厳格な出演規定がありオーディションにパスしないと出演できなかった。「ユー・リアリー・ガット・ミー」の大ヒットでオーディションを免除されたキンクスのような例もあったが、ローリング・ストーンズにしろ、ザ・フーにしろ、最初のオーディションには不合格。すべてはBBCの思惑通りにしか事は進まないというわけだ。これは英国のリスナーがヒット・チャートをリアルに体験できないことを意味していた。しかし、この極めて保守的だった英国のラジオを、沖合に停泊した元米軍の掃海艇が一変させることになるのだ。

英国ラジオ界の救世主となった男
 レイ・チャールズに憧れ、音楽業界で一発当てようとロンドンに現れた一人の男がいた。その名はロナン・オライリー。アイルランドの裕福な家庭で奔放に育った彼は、持ち前のロンドンのクラブ・シーンに素早く潜り込んでいく。そして、今や英国産R&Bが溢れ毎夜熱いセッションが繰り広げられるこの地で彼は、友人だったロシア人ジョルジョ・ゴメルスキーとマネージメント業をはじめ、ローリング・ストーンズやジョージー・フェイムらを手がけることになるが、自身のレーベルを旗揚げするつもりだったオライリーはアセテート盤を手に訪れたBBCで愕然としてしまう。BBCでは“ニードル・タイム”が存在するが、この枠はメジャー・レーベルのために割かれたものであり、まだろくに実態のない自主レーベルなど入る余地はなかったのだ。
 英国にはルクセンブルク大公国から発信される「ラジオ・ルクセンブルク」の電波も届いており、当時はヒット曲が聴けるラジオとして熱心なリスナーの支持を受けていたが、オライリーはこの局でもメジャー・レーベルに占有された番組表を見せられた。結局どこもメジャー・レーベルにしか門戸を開いていなかったのだ。
 オライリーは英国と同様の厳しい規制が敷かれていたオランダのラジオ事情を見てまわったが、ここで沖合の統治外エリアから発信される船上のラジオ局が複数存在していることを目の当たりにする。そしてこれが彼の心を決心させた。「ラジオでかけてもらえないのなら、自分でラジオ局をつくるまでだ」。そしてオライリーの家族が出航の基点となるアイルランドの港を所有していたという好条件、そして偶然にも船上放送局の可能性を探っていたオーストラリア人、アラン・クロフォードと思惑が合致することになり、オライリーの「ラジオ局」構想は一気に実現化していった。
 ラジオ局の名前は、当時ライフ誌に掲載されたジョン・F・ケネディ娘、キャロラインが大統領執務室で遊ぶ姿を写した写真からインスパイアされ“ラジオ・キャロライン”と名付けられた。そして放送機材を詰め込んだ元掃海艇はマン島の沖合に停泊、64年6月のイースターの日、遂に英国初の海上放送がスタート、ローリング・ストーンズの最新シングル「ノット・フェイド・アウェイ」の“レコード”がオライリーに捧げられオン・エアされた。まさに英国のラジオが生まれ変わる歴史的瞬間だった。

アメリカの“TOP40”を英国に
 ビートルズの世界的ブレイクで大きな注目を集めた英国の音楽シーンだったが、ラジオという“供給側”がリスナーの要望を満たしていないことは明らかだった。そこに彗星の如くラジオ・キャロラインが登場したが、同じような“オフショア・ラジオ”がテキサス出身のアメリカ人によって旗揚げされた。64年12月16日に試験放送がスタートしたこの局はずばり“ラジオ・ロンドン”と名付けられたが、彼らがアメリカの“TOP40”スタイルは絶対英国でも受けるだろうという読みは見事に的中、英国のリスナーはこぞって周波数を合わせ聴き入った。これ以降、“ブリティッシュ・ラジオ”や“スウィンギング・ラジオ・イングランド”、“ラジオ270”をはじめとした後継が続々と現れ、BBC以外に選択肢がなかった英国の放送事情は瞬く間に変わっていった。
 これら“パイレート・ラジオ”(彼ら自身は決して「海賊放送局」とは呼ばず、これらの局を“オフショア・ラジオ”と総称していたようだ)はヒット曲のレコードをオン・エアしていたことはもちろんだが、個性溢れるDJを輩出したことが人気を博した最大の要因だった。中でもラジオ・キャロラインやラジオ・ロンドンを支えたトニー・ブラックバーンやケニー・エヴァレット、ジョン・ピールは英国を代表するDJとして多大な支持を集め、同局の人気を確固たるものにした。
 映画『アメイジング・ジャーニー』でも取り上げられていたが、ラジオ・キャロラインはザ・フーの「アイ・キャント・エクスプレイン」のヒットに大きな貢献を果たした。国外の船上から発信していることもあり、これらのラジオ局でオン・エアされた曲の使用料はレーベルには一切払われていなかったようだが、レーベル自体はこの多大な影響力を持つメディアを無視することはできず黙認していたようだ。実際、65年以降の英国におけるヒット・シングルの多くはこれらの放送局から放たれたものだった。このことはアーティスト自身も充分認知しており、ビートルズもこれらの局用にメッセージを録音するなど積極的な関わりを見せていた。つまり、当時の状況を考えればザ・フーがアルバムの題材としてラジオ・ロンドンを取り上げたのも何ら不思議はないのである。

黄金時代の終焉
 瞬く間に隆盛を極めた“パイレート・ラジオ”だったが、これは法の抜け道を巧みに利用した手法であり英国政府が黙って見ているわけがなかった。無断で使用される周波数にルールはなく、電波同士の干渉が懸念されるなどいくつもの“もっともらしい”理由が並べられ、遂に電波法にメスが入れられた。もう無法地帯だった海上の電波も取り締まりの対象になるのだ。海上放送に対する新たな法案は8月15日に可決されたが、これを機に、次々に小さな局は姿を消していき、ラジオ・ロンドンは法案可決前日の8月14日、ジョン・ピールの番組「パフュームド・ガーデン」とともに静かにその幕を降ろした。一方のラジオ・キャロラインの船はオランダへと出港、もうひとつの歴史を刻んでいくことになる。

英国ラジオの新時代
 67年末には海上の放送局が一掃されたが、彼らが満たしていた需要に対する大きな空洞は簡単に埋められた。BBCが時代に呼応したポップ・ミュージック専門局“ラジオ・ワン”を発足させたからである。67年9月30日に開局したこの“ラジオ・ワン”にはトニー・ブラックバーンやケニー・エヴァレット、ジョン・ピールら海上放送の人気DJが引き入れられ、開局の冒頭をムーヴの「フラワーズ・イン・ザ・レイン」が飾った。BBCがここまで変貌したのは、数々の“パイレート・ラジオ”の登場なしには考えられなかっただろう。ラジオ・ロンドンで活躍していたジョン・ピールは、04年10月26日にこの世を去るまでBBCの看板DJとして音楽シーンに大きな影響を与え続けることになるが、映画『アメイジング〜』で完成したばかりの『ザ・フー・セル・アウト』を持参しオフィスを訪れたザ・フーの姿を思い出して欲しい。きっとBBCでDJを再開したピールに、ラジオ・ロンドンへのオマージュが詰まったこのアルバムいち早く聴いて欲しかったのだろう。
 ザ・フーはアルバム『ザ・フー・セル・アウト』に於いて、“レコードの広告媒体化”を画策したが実現には至らなかった。しかしそのアイデアは、失われようとしている“パイレート・ラジオ”の再現という形で結実している。ここで聴けるものは“架空のラジオ”に他ならないが、使われてるラジオ・ロンドンのジングルはすべて本物である。英国ラジオの4年に満たない“黄金時代”はあっけなく終焉を迎えたが、その思い出は永遠にレコードに刻まれているのだ。


犬伏 功(C)WHO's Generation 2008


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